最後に自分の研究について話します。
これまでに人類が作り出した化学物質は、アメリカ化学会のケミカルアブストラクトサービス(CAS)に登録されています。2015年には、CASのデータベースに登録されている化学物質の数が1億を突破しました。すごい数ですよね。まあ、これは実験室のみで合成されたような少量の薬剤なども含んでいるのですが、市場に出回っている化学物質に絞っても、数千種類あるといわれています。そうした化学物質のほとんどは、とくに人畜に対して何ら悪影響を及ぼすものではないと思われますが、一方で全ての物質について、完璧な毒性試験がなされているというわけではありません。メーカーも最善の努力を尽くしてはいますが、それはすでによく知られた毒性に基づく試験です。内分泌系や神経系などに対する化学物質の長期的な影響や複合毒性など、まだそのメカニズムがよくわからず、標準的な試験法が確立されていないものもあるわけです。また、ヒトの個人個人、あるいは生物種の違いで、化学物質の毒性に対する感受性、敏感さがかなり違うことも最近の研究でわかってきました。よって、一口に化学物質の毒性といっても、それだけ色んなパラメーターがあって、それらすべてを考慮して、数千・数万という化学物質について、事前にヒトや生物に対する化学物質のリスクを完璧に把握することは、現実的に不可能といえます。
ではどうすれば良いのか?基本的には大きく3つのアプローチがあると思います。
まず一つは、個人個人のこころがけです。つまり本当に必要となる化学物質以外はなるべく使わない方がいい、ということです。テレビのCMでは、たくさんの薬剤が便利そうな機能、例えば除菌や殺菌、よい香りといったもの、を宣伝しているわけですが、本当にそれらがどこまで必要か、よく考える必要があるでしょう。また、それらを使って人間にはとくに問題なかったとしても、河川や海に流れ出たあとにそこにいる生物や生態系にどのような影響があるか、想像してみることではないでしょうか。プラスチックなどの便利な素材にしても、使えば使うほど廃棄物の量は増えます。どんなに良い処理技術を使っても、その量が膨大であれば、様々な環境負荷や生態系への影響が顕在化することになります。
残りの二つは、専門的なアプローチ、すなわち我々研究者に求められることです。先ほど述べたように、化学物質の毒性はヒトの個人個人、生物種ごとにかなり異なってくることがわかってきました。例えば、ダイオキシン類の一種TCDDは、生物種によってその致死レベル、正確には半数致死量といいますが、これが数ケタも異なってくるわけです。最近ミツバチに対する影響で注目されているネオニコチノイド系殺虫剤も生物種によって毒性影響の出かたが大きく違います。このような化学物質に対する‘感受性’の違いは、生物種ごとの遺伝子レベルの違いに起因します。そこのメカニズムが解明されれば、化学物質を開発したり、毒性試験をする際に、毒性に敏感な生物種やヒトへの影響をより正確に予測できるようになると思います。すなわち、化学物質の毒性に対する生物側の敏感・鈍感のメカニズムを解明し、それに基づいて化学物質のリスクをコントロールする新たな手法や視点を持つということですね。
そして残された3つ目のアプローチは、包括的な環境・生態系のモニタリング、監視・観察を行うということです。先ほど述べたように、現在非常にたくさんの種類の化学物質が私たちの生活や産業・農業活動において利用されています。PCBのように使われ始めた当初は、素晴らしく利便性があって、有害性もほとんどない、と思われていた物質が、のちになって生態系やヒトに深刻な影響が広がっていることが判明するケースもあります。ですから、現時点で有害性の情報のあるなしに係らず、環境中に存在し、ヒトや生物にばく露・蓄積しているような化学物質がどのぐらいあるのか、これを継続的かつ広域的にモニタリングしておくことが、何らかの影響や新しい有害性が判明したときに非常に有用な基盤情報となります。情報があれば、予防や早期対策ができます。情報がなければ、予防もできませんし、対策は遅れるでしょう。
私たちの研究室は、そのような環境・生態系に存在する化学物質、とくに残留性・蓄積性のある物質群を測定するための技術開発や長期的・広域的なモニタリングを実施しています。実は日本で初めて、廃棄物焼却施設の灰や野生動物の組織からダイオキシン類を検出し、定量したのも、愛媛大学の研究者グループです。私たちの研究室はそのようなパイオニアワークを引き継ぎつつ、新たな化学物質を対象としたモニタリング法を確立しながら、環境中での物質動態や、ヒトや生態系に対するばく露の実態、潜在的なリスクを見極める研究を続けています。とくに最近は、一度の分析で数百~数千の化学物質を検索・検出する先端的な分析手法や遺伝子導入細胞の毒性反応に基づく有害性の検出・評価法などを組み合わせ、より網羅的で包括的な化学物質の監視とリスク評価ができるようなシステムの構築を目指しています。また、先に述べた毒性メカニズムの解明に係る研究者や野生生物の生態についてフィールドワークを行っている研究者と様々な共同研究を行っています。人類が作り出した化学物質による影響の範囲を知るということは、実は自然と人間の関係性を科学の目で再発見することにつながります。そうしたことに関心のある学生さんと、新たな自然と人間の姿を発見し、環境保全の道をつくっていきたいと思います。